おしゃべりは本能だよな、多分

人間は一人では生きていけない。

何故か?

それは多分本能的なものだ。

コミュニケーションがどうしても必要なのだ。

常に群れで生活してきた人類の本能だと思う。

だから、どれだけ理性が発達しても本能を否定してはいけない。

 

いわゆる頭が良いといわれる人は、理性的な人が多い。

高学歴なら、まっとうな人が多い的な先入観は間違いなくある。

低学歴な環境は、暴力や性的な部分と触れる機会が多い。

本能と接しやすい環境なのだ。

それはむしろ、素直な感情表現が出来ることであり、子孫を残す本能が強い事であり、何が何でも生き残るための物理的な方法を知っている事でもある。

こんな事は増田でしか書けないが、低学歴だが、頑張っている奴らとの付き合いは結構ある。

少なくとも俺の付き合いがある連中は、低学歴だから、頭が悪いと思う奴は一人もいない。

ま、そういう奴らしか付き合いが無いのも確かだが。

「お前、明日から、今一緒に仕事しているxxの代わりにうちの会社に来てくれよ。

xxは何年もこの筋のベテランのはずなんだけど、全く使えないんだよ。

お前の方が絶対仕事できるわ。」って言いたくなる事もある。

結局代われないから無理なんだけどな。

そもそも理性的であることが常に優秀なんて馬鹿げている。

話を戻すと、本能は、人間の本質であり、存在意義だ。

 

自分は、人より、性欲が強く、人より暴力的・感情的かもしれない。

だが、それは本能が色濃く残っているだけであり、何も恥ずべきところはない。

いやむしろ、周りの人間より仕事が出来るとしたら、誰よりも優秀なのではないのか?

 

結局、「仕事が出来る」という言葉の意味が変わってしまうと全てがひっくり返る。

本当にずる賢い奴らは、この「仕事が出来る」の定義を自分の都合のいいようにその都度変えていく。

本当にうまい。

ある時は「利益が出る事」が「仕事が出来る」であり、

ある時は「全体最適化に貢献している事」が「仕事が出来る」であり、

ある時は「強調して全体をまとめていく事」が「仕事が出来る」ことであり、

あるときは「バランス感覚」が。

評価基準をあいまいにするのは卑怯だろ。

評価面談の際の主語は「私が全社方針のために貢献したことは」で始めるべきなんじゃ?

 

ああ、全く話が、それた。

 

で、おしゃべりの本質とは?

それは、本能ではないだろうか?

群れで活動することが、人類の本来の姿であるなら、自分の知り得た情報を群の誰かに伝達する事が本能なのではなかろうか?

おしゃべり、性欲、暴力、感情、全て本能。

すげー雑なまとめ。